鹿児島地方裁判所 平成元年(ワ)1004号 判決
原告
甲野一郎(仮名)(X)
被告
鹿児島県(Y)
右代表者知事
須賀龍郎
右訴訟代理人弁護士
和田久
事実及び理由
二 争点に対する判断
1 亡Aは、精神分裂病であったかどうか。(争点1)
(一) 神経症及び精神分裂病
神経症とは、鑑定の結果によれば、精神的原因による心の不調で、精神病とされるほど重くない状態をいい、症状は広い意味の不安で、しかも自分がそれに悩まされていることを自覚していることが特徴であり、米国精神医学会の精神障害分類と診断の手引き第四版では、神経症という用語を避け、不安障害(不安・恐怖神経症)、身体表現性障害(転換性障害)、解離性障害(またはヒステリー神経症・解離型)、強迫性障害等に分類されているとされ、B医師も、神経症うつ病とは、憂うつ症を主症状とし、主観的な抑うつ気分・焦燥感・イライラ感が強い反面、抑制症状が比較的軽いという特徴を有する神経症であり、発症に際しては、心因が関与する場合が多いと証言する(〔証拠略〕)。
これに対し、精神分裂病については、鑑定の結果によれば、疾病概念が未だ混乱の域を出ないとしつつ、分裂病性の障害は、一般的には思考と知覚からの根本からの独自の歪曲及び場にそぐわない鈍麻した感情を特徴とし、ある程度の認知障害の経過に従って進行することもあるが、意識の清明さと知的能力は通常保たれ、最も重要な精神病理学的症状としては、考想化声、考想吹入、考想奪取、考想伝播、知覚障害、支配され影響され抵抗できないという妄想、妄想知覚、支配され影響されるという妄想、第三者が自分のことを話題にしている声が聞こえるという幻聴、思考障害及び陰性症状があり、また、分裂病後抑うつと名付けられる、分裂病の経過中ないし分裂病性エピソード(症状の強い状態)の消退期に生じるうつ状態があって、自殺の危険性を増大させるといわれており、症状が激しい場合でなくても抑うつ感情や自殺は生じるとされている。B医師も、精神分裂病は、幻覚・妄想・自我障害・感情鈍麻・滅裂思考・自閉症・能動性の低下等を特徴とする病気で、主として青年期に発症して、慢性に経過する内因性の精神疾患であるが、定義付けは時代と学派によって異なり、治癒は難しいと証言している(〔証拠略〕)。
(二) 亡Aについての鑑定意見
亡Aの症状は、神経症のいずれの類型にも当てはまらないこと、<1>昼夜逆転、<2>外に出られない、<3>同世代の人と会うことが恐い、<4>集団の中で、圧迫感や緊張を感じるといった特徴があり、精神分裂病を発病していることがある引きこもり現象が認められること、前記7に認定のとおりの「このノイローゼの面を見破られたらお父さんの面汚しになる。」といった亡Aの言動は、自分のことを見抜かれている、見透かされているという精神分裂病者によくある体験(頓挫型の構想察知)を有していた疑いが大きいこと、病前性格を見ても、うつ病者によく見られる循環気質、循環気質に見られるような外向的な性格ではなく、前うつ性格ないしメランコリー親和型のいずれにも該当せず、病像そのものも気分障害としてのうつ病に見られるように、はっきりとしたうつの病層とその緩解期という形をとっていないこと、前記一2(二)及び5(一)(1)の認定事実は、潜伏的に発症した神経衰弱状態をもって発症し、次第に過敏となり、関係妄想を抱くに至った患者としては典型的なものであることから、単純型分裂病(行動の奇妙さ、社会的要求に応じる能力のなさ、全般的な推考能力の低下、潜行性だが進行性に生じる障害である感情鈍麻や意欲減退等の陰性症状が、明らかな精神病的兆候の前触れなしに生じる型の分裂病)、あるいは単純分裂病ないし破瓜型分裂病(感情の変化が突出した症状で、幻覚や妄想は一時的断片的で、行動は当てにならず予測し難く、わざとらしさが見られるような型の分裂病)が疑われ、特に後者が発病していた可能性が高いとされている。また、全国の国・公・私立医科系大学臨床精神科の全教授・助教授・講師を対象としたアンケート調査の結果(有効回答数一九四名)によれば、前記一の認定事実の概要を示した場合の診断病名(疑いを含む)としては、精神分裂病が二九・二パーセント、神経症(抑うつ神経症を含む)が二五・六パーセント、境界例が一九・五パーセント、人格障害が一〇・三パーセント、躁うつ病が五・一パーセント、その他が一〇・三パーセントであった。
(三) 以上に照らして検討するに、前記一の認定事実によれば、亡Aの症状は前記(一)記載のとおりの神経症の特徴とされる症状に止まらず、神経症には見られないが、精神分裂病の特徴的症状として指摘されている関係妄想、自我障害ないし対話性の幻聴等の症状も認められ、鑑定人小田晋も前記(二)記載のとおりの理由によって精神分裂病であった蓋然性が最も高いとしており、また、前記(二)記載のアンケートに際して示された本件事案の概要中では、前記一8(一)(1)認定事実中の関係妄想、幻覚及び幻聴に関する部分並びに亡Aが自殺した事実が欠落しているにもかかわらず、精神分裂病ないしその境界例とする回答が四八・七パーセントを占めていることからすれば、亡Aは精神分裂病ないしその境界例である疑いが極めて高かったものというべきである。
原告本人はC医師の神経症との診断をもって、亡Aは精神分裂病ではなかったと供述するが、前記一8(一)に認定のとおりのB医師の診断時には、前記一2、4、5に認定のとおりのC医師の相談ないし診療時には見られない幻聴等の症状が認められ、B医師も、C医師の診療時よりも関係妄想の病理が深くなっていて、抑うつ神経症から分裂病に進んでいる可能性があり、抑うつ神経症でも重症ではないかと判断したと証言しているところであるから(〔証拠略〕)、C医師の診断のみをもって亡Aが精神分裂病でなかったということはできず、右原告本人の供述を採用することはできない。
2 B医師の注意義務違反の有無(争点1)
B医師は、亡Aと保養院との間に平成元年五月二六日に締結された診療契約上、亡Aの精神状態について当時の精神医学の知識と技術を駆使して有効な診療行為を行うべき義務を負っており、右診療行為時に亡Aに自殺の危険性が認められる場合には、原告主張のとおり、できる限り注意深く観察し、受容的に対応するなどして同人の精神症状を緩和するなどの措置を講じるべきであったというべきである。
そこで、右同日当時の亡Aの自殺の危険性、B医師の診療行為、の内容について検討する。
(一) 亡Aが自殺する危険性について
前記認定のように、亡Aは、昭和六二年五、六月ころには、投薬された抗不安剤の多量服薬による自殺を企図し、C医師に「死んでしまいたい」と話すなどしていたが、その後に自殺を決意して具体的に実行しようと企図したことや自殺をほのめかすような言動をとったとの事実は認められない。原告において入院を希望して来院したのであり、全体的な症状は変化していたと推認されるものの、平成元年五月二六日のB医師の診療時にも、問診に応じる亡Aの態度・表情は落ち着いたものであって、自殺の表明もなかったが、同医師は、自殺したいという気持ちの有無の確認や自殺しないとの約束の可否の問いかけに対して亡Aが何らの返答もしないことから、自殺念慮が皆無ではないが、自殺の危険性はないと判断したものであり、これらによれば、同医師が亡Aの差し迫った自殺の危険性を事前に予測すべき状況にはなかったというべきである。殊に、本件のように入院中の患者でなく、他に通院しており、三年余を経た後に外来で受診した患者について自殺の危険性を予測することは極めて困難であったといわざるを得ない。
もっとも、前記1(一)に認定のとおり、精神分裂病では、分裂病後抑うつと名付けられる、分裂病の経過中ないし分裂病性エピソード(症状の強い状態)の消退期に生じるうつ状態があって、自殺の危険性を増大させるといわれていて、症状が激しい場合でなくても抑うつ感情や自殺は生じるとされており、B医師も、自殺念慮の表明がない場合で、<1>自らを苛める強い幻覚妄想状態、<2>深い抑うつ疎隔状態、<3>目に激しい不安焦燥状態のどれかの状態像であれば、自殺の危険が高いと証言するところであるし(〔証拠略〕)、また、鑑定の結果においても、前記1(二)と同様のアンケート調査の結果によれば、自殺の危険性が非常に高いとするのは三・一パーセント、やや高いが五〇・三パーセント、やや低いが三三・三パーセント、非常に低いが五・六パーセントの各割合であるところ、鑑定人は自殺の危険性がやや高いと判断している部分も存するが、証人Bの右証言は一般論にすぎず、同人の証言によっても精神分裂病の患者で、自殺念慮がありながら自殺せず、治癒することもあることが認められるほか、右アンケート調査によっても、自殺の可能性を察知することは非常に困難であるものと認められる。また、右鑑定の結果も、平成元年五月二六日時点で、亡Aが自殺することを予見できたかという鑑定事項に対して、その可能性については低いとも高いともいえないが、どちらかというと高めであるというのが平均的な意見であり、緊急性を感じる医師は少ないと考えてよい旨判定しているのであり、これは、差し迫った自殺の危険性は予測できないとするものであって、前記認定を左右するものではない。
(二) B医師による病名の告知等について
そこで、B医師の診療の際の病名の告知等の発言について検討するに、前記一8(一)の認定事実によれば、B医師は、亡A自身から情報を収集する必要性があると考えて、原告からの亡Aが精神分裂病かとの反問を遮るために、その可能性があると説明し、継続的治療を受けさせるために一、二年の治療を要すると説明して、亡Aとの問診を再開し、幻聴に関する訴えを引き出していること、同医師は、原告の入院希望及び自殺念慮が皆無ではないと判断したことから、亡Aに自殺しないことの約束を求めたが、同人は何らの返答もしなかったこと、原告による亡Aの入院希望については、同人の意思が明確でないことから、入院させない方がよいのではないかと原告に説明したこと、同医師は、原告の反問を遮ったこと以外は、終始受容的態度で亡Aに対する問診を実施していることが認められる。また、鑑定の結果においては、前記1(二)と同様のアンケート調査の結果によれば、精神分裂病(疑いを含む)と回答した五〇名中、本人に告知するのは九名、聞かれれば告知するが二九名、告知しないが一六名であるが、いずれにしても告知するとした二五名中、精神分裂病と告知するのは四名、神経症と告知するのが九名、その他が一二名である。B医師も、軽症の分裂病患者には、質問された場合の消極的告知を含めれば五割弱程度は告知するが、重症な分裂病患者では三割程度であると証言する(〔証拠略〕)。
右及び前記(一)の認定説示によれば、B医師は、亡Aに対し、積極的、確定的に病名を告知することなく、終始受容的態度で問診を実施していたが、精神分裂病の可能性があるなどと言及したのは、原告による反問を遮って、診療上重要視される亡A自身からの情報収集を行うためのやむを得ざる措置であったと同時に、鑑定の結果によれば、亡Aの自殺を防止し、かつ入院(一貫した継続的治療の必要性)を説得する方策でもあったものと認められるから、前記のとおり、同医師が亡Aの差し迫った自殺の危険性を予測することが困難であったとの事情も考慮するならば、同医師の右行為は相当であって、診療契約上の注意義務違反の過失はなかったというべきである。
原告本人尋問の結果中、右認定に反する部分は採用しない。
3 B医師の診療行為と亡Aの自殺との間の因果関係(争点2)
以上のとおり、B医師に診療契約上の注意義務違反はないと認められるが、なお同医師の診療行為と亡Aの自殺との間の因果関係について付言する。
原告は、同医師が平成元年五月二六日の診療時に、亡Aが精神分裂病である可能性がある、神経症であるとしても、治療に一、二年かかるなどと言及したことによって、亡Aが衝撃を覚え、絶望に打ちひしがれたとして、右診療後自殺までの亡Aの状況について縷々供述し、亡Aの自殺が同医師の診療を受けて間がなかったことは前記認定のとおりである。
しかし、鑑定の結果によれば、精神分裂病の場合には、一般的に衝動的な行動が認められるために、自殺の原因を事後的に特定することは極めて困難であるとされるところ、前記一5(一)(1)、8の認定事実及び甲二(亡Aが記載したノート)によれば、亡Aは自分が病気(うつ病、ノイローゼ、神経症等)であって、その治療には時間がかかると認識していたことが窺われる上、平成元年五月二六日の診療の際、同医師が精神分裂病の可能性等に言及した後の亡Aの言動をそれ以前と比較検討しても、顕著な変化があったとまでは認め難い。さらに、平成元年五月二九日に来院した原告は、同医師に対し、亡Aの状況については説明することなく、原告及び継母を嫌っているという亡Aの言動等を理由に再度保養院への入院を希望したにすぎないことも考え併せると、前記2(二)に認定説示のとおりに同医師が精神分裂病である可能性等に言及したことが、亡Aをして自殺を思い立たせるほどの強い精神的負荷をかけたということはできず、同医師の診療行為と亡Aの自殺との間に因果関係を認めることはできないといわざるを得ない。
三 よって、その余の点を判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由がないから、これを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 牧弘二 裁判官 山本善彦 近藤猛司)